「戻りました」
エレベーターから降りて社長室に入ると、適度にクーラーの効いているひんやりとした空気に私はほっと息をついた。外はまだ5月だというのに、夏かと思うほどの高温多湿。長袖のスーツを着て外を歩き回っていた私にはかなりありがたい歓迎だった。自分の机に持っていたノートパソコンを置いてセットし直しながら、椅子に半ば埋もれるようにして座っている社長を見やって私は首をかしげる。
「社長、ただいま戻りました」
「Ah」
「何をなさっておいでです?」
「見りゃわかんだろ」
「恐れ入りますがわからないから聞いております」
「Breaktime」
「───────────左様ですか」
眼帯をしている右目はわからないけれど、左の眉だけを軽く上げてちらと私を見上げてくる社長は見るからにぐったりとした様子で、重ねて口を開く。
「お疲れのようでしたらコーヒーか何かお飲みになられますか?」
「Thanks」
「ではコーヒーでよろしいですか?」
「濃いめで頼む」
「かしこまりました」
頭の中で社長の予定表をめくってみる。確か今日は午前中に重役会議があった。だから私は社長の名代で各社にあいさつに赴いていたのだ。でもあんなふうにぐったりとするほどの会議だったとはちょっと意外だった。いつも社長はいい意味でも悪い意味でも傍若無人で自分の意志を貫くタイプだから、てっきり会議でもそうなのかしら、と思っていた。まぁでも社長があれほど疲れている姿を見せてくれるようになったのはごく最近のことだから、少しずつ私は秘書として社長との距離を縮めて行っているのかもしれない、などとうぬぼれたくもなるけれど。
給湯室の自販機でコーヒーを二つ。ここの自販機は珍しく豆から挽いてコーヒーを淹れてくれるタイプだからコーヒー好きとしてはたまらない。前の会社では私は自分でコーヒーメーカーを持ち込んでいたけれど、ここに来てからはもっぱらこの自販機のお世話になっている。早速コーヒーを淹れようとしていた私だけど、先客がいることに気付いて手を止める。そこには備え付けのソファに身を沈めている小十郎と数人の女性社員の姿があって、女性社員たちは小十郎を囲んでキャイキャイと黄色い声を上げていた。確かに小十郎は端で見ればちょっとそっち方面のような雰囲気はあるにせよ、整った顔にスタイルだっていい。それになんだかんだ言って優しいからモテるのはわかる。私と付き合っていたときからそうだったし、この会社に来た時から女性社員たちの視線が怖かったのも事実だった。
ほとんどの社員たちがここにお茶を取りにくるだけで休憩をしに来るわけじゃないからここはクーラーが効いていない。実際、私も暑いと感じるほどだから男性にとっては体感はもっと上だろう。だからなのか、小十郎は軽くネクタイを緩め、シャツのボタンをはずして袖をまくりあげる。その仕草に女性社員たちがキャア、と歓声を上げるのが聞こえてくる。首から覗く鎖骨や太い腕はまさに男性を象徴するようで、一瞬私は自分の役目を忘れて彼を注視してしまう。だけど女性社員たちが私を見て目つきを強めるのに、慌てて視線を逸らして小さく会釈だけをする。そしてそちらは見なかったふりをして私は少し甘めにしたカフェオレ、社長にはリクエスト通り濃いめのブラックを淹れてカップを取り出して、冷めないようにと置いてあったプラスチックの蓋をしめたときだった。ふっと目の前に影が差した。驚いて見上げると小十郎がいて、私は反射的に眉を上げてしまう。
「おい、ンな顔するんじゃねぇ。一応俺はお前の上司だろうが」
「───────────それは、申し訳ありません」
きょろきょろと見回すが、先ほどの女性社員たちの姿はなくなっていた。険しい表情になった私を見て眉を寄せた小十郎に頭を下げて逃げ出すように給湯室を後にしようとするけれど、小十郎は素早く私の前を塞いでしまう。
「専務、先ほどの女性たちはよろしいのですか?」
「アァ?別に世間話をしていただけだ。もう帰ったぜ」
「左様ですか。失礼ですがそこをどいていただけますか」
そっけなく告げてすり抜けようとする私の前を彼が塞ぐ。咎めるような視線を上げる私に小十郎は至極冷静に私を見下ろした。
「失礼なのはお前の態度だろうが。俺を見るなり逃げ出そうとしやがって。それは?」
「コーヒーですが」
「何故二つある?」
「社長に頼まれました」
「政宗さまから?」
「ええ。コーヒーが冷めてしまいますので失礼します」
怪訝な顔をする小十郎の脇をすり抜けて社長室に戻る。その前まで来て、私は内心しまった、とお盆を持ってこなかったのに後悔した。両手がふさがっているので、ノブを回すことはできない。社長室ともなると、社員証をかざして電子錠を外してからじゃないとノブは回らない仕組みになっている。身分証明書は首からかけているけれど、さっきコーヒーを運ぶときに邪魔にならないようにスーツの内側に入れてしまっているから、それを取り出してからじゃないと無理だ。どうしよう、と迷っていた時間はそれほど長くはないはずだけど、不意に私の後ろから手が伸びて電子錠に社員証がかざされる。びっくりする私をよそにガチャ、という鈍い音がして電子錠が外れ、ノブを回したのは小十郎だった。片手には自分のだろう、カップを持っていて、彼は私に入れ、とばかりに顎をしゃくる。余計なおせっかい、と言ってしまえばそれまでだけど、助かったのも事実で、小さく頭を下げた私に小十郎はにや、と男らしい笑みを張り付けただけだった。
どうぞ、と差し出したコーヒーをちら、と見て社長は小さく「Thanks」と告げて手を伸ばす。ずず、と一口すすると、社長はちら、と私を見る。
「甘ぇ」
「はい?」
「、濃いめに頼んだはずだが」
「ええ、ですから───────────」
そう言いかけて私は自分の手の中に残ったもう一つのカップに口をつけて思わず「にが・・・・」と口に出してしまう。確か自分の分はカフェオレにしたはずなのに、と思っていると社長は私にそれを寄越せ、とばかりに手を伸ばしてくる。
「社長?」
「いいから寄越せ」
ひったくるように私の手からカップを取って口をつけた社長が満足そうに頷いた。まさか、と私は慌てて社長に差し出したカップを取って中身を確認する。案の定入っていたのはカフェオレで、どうやら渡す方を間違えてしまったらしいと気が付いて私は社長に頭を下げた。
「申し訳ございません!」
「Ah?No problem。別に悪気があったわけじゃねぇだろ」
「はい・・・・・・・」
「それより、小十郎、何の用だ?」
ちら、と私の後ろでずっと立ったままの小十郎を見上げて社長が不機嫌そうに声を上げる。私だったらひるんでしまいそうな声音だというのに、小十郎は慣れたもので小さく笑いながら社長の側へと歩を進める。すると緩めたネクタイの隙間から肌が覗き、シャツの袖をまくり上げた先にはたくましい腕いていて、柄にもなくどくん、と心臓が鳴った。それを聞かれはしないかと慌てて小十郎から視線を逸らす。
「外でが困っておりましたので。それよりも政宗さま、本日の会議ですが」
「───────────例の会社の件なら考えてる。場合によっちゃお前に出張ってもらうかもしれねぇが、少し様子を見る」
「かしこまりました」
私にはちらとも視線を向けなかった小十郎に内心ほっと胸をなでおろす。だけど何故か社長の視線を逸らしたままの視線がかち合って、社長は一瞬何か悪戯を考え付いたような子供の笑みを浮かべたけれど、すぐ次の瞬間にはいつもの表情に戻っていた。頭を下げた小十郎をちら、と見上げて面倒くさそうに告げる社長は「あちぃ」と言いながらネクタイをほどいてシャツのボタンを外す。これ見よがしに肌を見せる彼の悪戯に私は悟られないように息を吐いて、黙って立ち上がってからクーラーのリモコンを取って温度を下げる。
「社長、二度下げましたので仕事してください」
「Ah?コーヒーを飲むぐらいのBreaktimeがあってもいいだろ」
「ではコーヒーを飲み終わったら決裁をお願いいたします」
「───────────Okey」
置いていた鞄から書類を取り出して社長の決裁が必要なものと、小十郎の決済が必要なものとに分けていく。社長のそれが必要なものを彼に渡すと、何故か社長が少し傷ついたような顔になった。意味がわからなくて首をかしげるけれど、彼の行動が変なのはいつものことだから何も気づかなかったふりをして残りの書類を小十郎の元へと持っていく。
「専務。こちらにお目通しをお願いします」
「ああ。これは?」
「長宗我部さんの会社の見通しとプレゼンテーション用のパワーポイントです。よろしければこれでいきたいのですが確認をお願いします」
「わかった」
「よろしくお願いいたします」
「」
頭を下げて自分の席に戻ろうとすると、社長に呼び止められる。見れば腕のボタンをはずして腕をまくり上げ、何故か私に見せつけようとする彼に私は内心では戸惑いながらも彼の前に立った。
「お呼びでしょうか?」
「Ah・・・・・・・・・」
「はい?」
「これで間接kissだな」
私が口をつけたプラスチックに唇をつけて、ご丁寧に舌先で拭ってみせる彼に私は一つ、大きく息を吐き出した。馬鹿馬鹿しい、としか言いようのない幼稚な言葉に私は呆れたような態度を隠さないまま頭を下げた。
「そのようなくだらないことで呼び止めないでいただけますか。それより、先ほどより温度を下げておりますので、どうぞきちんと服を着てください。お客様がいらっしゃった時に失礼になりますので」
言い捨てて仕事に戻る。正直午前中いっぱい外出をしていたから山のようなメールのチェックも書類のチェックも置き去りのまま。今日中に終わるのかしら、と思いながらとりあえず片っ端からメールに目を通して社長や小十郎に転送するものを仕分けていく。多分数十分間は経ったと思う。自分の作業に没頭する私の背後にふと違和感を感じて顔を上げるとすぐ側に小十郎が立っていて、私は思わず悲鳴を上げそうになった。
「せ、専務───────────っ!?」
「何だ?」
驚く私に小十郎の低音がすぐ耳元で響いて反射的に逃げ出そうとする私の身体を捕まえるように、彼は私の椅子の背もたれに手をかけた。嫌な予感に社長に助けを求めようとするけれど、何時の間に出て行ったのかはわからないけれど、部屋に社長の姿は見当たらなかった。
「政宗さまならいねぇぜ」
「どちらへ───────────」
「成実さまが呼びにきただろうが。気づいてなかったのか?」
「そ、そう・・・・・・・」
まったく気づかなかった───────────。それだけ作業に没頭していたのかという反省と、多分私に相手にされなかった成実さまからは後でさんざんからかわれるに違いない予測に冷や汗が落ちる。社長の一つ下、という彼は普段は陽気で話しやすい人だけど、人をからかう癖は正直社長よりも性質が悪い。
「それよりも、」
耳朶に息がかかるほどの近さで響く低音にどくん、と心臓が跳ね上がる。
「専務、今は勤務ちゅ・・・・・・」
「つれねぇな。あぁ、お前、耳が弱いんだったな」
「ちょっと小十郎!?」
ぱく、と耳朶に歯を立てられ、耳の中へふぅと息を吹き込まれて身体が震えた。セクハラだ、と振り払おうとする私の手はあっさりと彼に捕らわれて、怒る私に彼はしてやったり、とばかりの笑みを浮かべる。
「お前がこっちを見ねぇからだろうが。で、何で俺を避ける?」
「それは・・・・・・小十郎が仕事を邪魔するからじゃない!」
「アァ?俺のせいじゃねぇだろ」
「あなたのせいでしょ!」
きつく言って振りほどこうとするけれど私の力じゃ小十郎の腕はびくともしない。太い腕と、真正面から見た首筋にさっきの記憶がよみがえってきて思わず体温が上がる。だけどそれを悟られないように、と彼から視線を外したけれど、クッ、と意地の悪い笑い方で彼は私の腕をぐい、と引いた。
「ま、俺に見とれてたことは内緒にしてやる。だから今日の夜、食事に付き合え」
「な───────────っ!?」
耳朶の近くで響く声に思わず顔を上げる。気付かれていたなんて思わなかった。多分見上げる私はひどい顔をしているんだろうと思う。そんな私の表情を楽しむように小十郎は笑みを張り付けたまま、耳朶に唇を寄せる。
「あの口の軽い女子社員たちにお前が俺に見とれてたって噂を広めてほしいなら断れや」
どくどくと鼓動が早鐘を打ち始めるのを止められない。真っ赤になって彼を見上げたままの私に選択肢は残っていなかった。小さく頷いた私に小十郎はにやりと人の悪い笑みを浮かべて私にしか聞こえない声でこういった。
「お前の好みなんざとっくの昔からお見通しだ。文句があるならごまかし方も変わっちゃいねぇ自分に文句を言うんだな」
無論私は何も反論できないまま、まんまと小十郎の罠に引っかかってしまった私を呪いたくなった。結局強制的に食事に行くことになり、それからしばらく社長と成実さんにさんざんからかわれる羽目になってしまい───────────私は本気で架空でもいいから恋人ができました、と小十郎に仕掛けてやろうかと思う毎日が続いている。