「姉上、ここ、危ないです」
「何言ってるの。ここを乗り切ってこそご褒美が待っているのよ」
息を切らせながら前を行く姉の後ろに続いて大木をよじ登っていくのは身体の小さな少年だ。右目を髪と眼帯で隠し、小さな手で幹をつかむ。その少年を叱咤しているのは15、6の少女だった。動きやすい男物の着物をまとい、少年とは打って変わってまるで猿のようにするすると上に向かっていく。
「ご褒美より喜多と小十郎の小言が───────────」
姉を見失いまいと必死に追いかけながら小さくひとりごちる。その声に前を行く姉はピタリと手を止めた。
「いいこと、梵天丸、小十郎と喜多に見つからないように登り切るのよ。ほら早く!」
「え・・・・姉上ぇ・・・・・・」
「そんな」と言いながら姉を追いかける。少年が小十郎と喜多の名を出した途端、登る速度を上げた彼女を見失いそうで必死に手を伸ばす。その時だった。
「梵天丸さま?さま?どちらにいらっしゃいますか?」
と二人を呼ぶ声が聞こえてきたのは。思わず枝と葉をかき集めて隠れる姉に習って梵天丸と呼ばれた少年が葉に隠れる。
しばらくそのままの姿勢で隠れていれば女の声が遠ざかっていく。ちら、とそちらを見やってもう大丈夫、と次の枝に手を伸ばした途端だった。
「さま!梵天丸さま!見つけましたぞ!」
「うわ、小十郎!?」
「きゃあっ!!」
突然の怒声に首をすくめる。だが、その声に驚いたのは梵天丸だけではなかった。と呼ばれた少女の枝に伸ばした手が空をつかむ。
「姉上!?」
「さまっ!?」
「きゃああああっっ!!!」
「さまぁっ!!!」
そして体制を崩した彼女の身体が宙に投げ出され、地面へと叩きつけられた。
幸いにも彼女は命を落とすことはなかった。だが、その代償に彼女の首から頬にかけて引き攣れた醜い傷痕が残ることになり、その風貌から他家へ嫁ぐことも出来ず、十年近くが過ぎた。その間に梵天丸が元服し政宗と名乗って家督を継ぎ、その傍らには執政として小十郎が常に控えている。は未だ妻帯しない政宗の代わりに奥を取り仕切るようになった。
この日は城中が歓喜に沸いていた。当主の政宗が念願だった相馬勢を打ち破り奥州を統一し、凱旋するのだ。長い戦の終結と名実ともに奥州筆頭の座を手に入れた弟たちを迎えようと朝から準備に余念がない。
「お酒の手配はいいわね?領民にも振る舞うことを忘れないように」
「へい!姐御!!」
「喜多、奥はどう?」
「万全でございます」
「そう」
「さまはどうか殿のお出迎えに門へお向かいくださいませ。ここは私共にお任せを」
「そうね。喜多、任せたわ」
「はい。かしこまりました」
頭を下げる喜多たちを置いて歩き出す。しかし少し遅かったようで、門のあたりから歓声が上がる。足早にその声の元へとたどり着くと、そこには小十郎を伴った政宗が草履を脱いでいたところだった。
「梵」
「Ah?姉上か」
「お帰りなさい。戦は大勝利だったそうね。さすが梵だわ」
「Thanks。姉上の方は変わりはなかったか?」
「ええ。つつがなく。留守の間は綱元がしっかり守ってくれていたから特に伝えるようなことはないわ」
「そうか」
疲れた顔を見せずに笑う弟につられるように笑顔になる。そして立ち上がる彼に「広間で喜多たちが祝勝会の準備をしているわ」と告げると、政宗は頷いて歩き出す。取り残されたがちら、とずっと無言のまま控えていた小十郎に視線をやった。
「小十郎も───────────、ご苦労さま」
「いえ、此度のことはすべて政宗さまの采配の賜物でございます。この小十郎は政宗さまの下知に従ったまでのこと」
「───────────そう」
二人の視線が交わることなどなかった。小十郎はの顔を一度見上げ、そのまま視線を下ろす。その表情にわずかに苦渋が混じっていることは本人しかわからないこと。そのまま無言になるに、小十郎は丁寧に頭を下げて「失礼」と告げて政宗の後を追った。
小十郎の後姿が見えなくなるとは大きく息を吐いた。伊達家の長女として奥を預かるだけではなく政宗の姉として気風の良さで知られる彼女だが、ただ一人、政宗の重臣である片倉小十郎との仲がうまくいっていないのは周知の事実であった。が傷を負ったあの日から、彼は自分をちゃんと見ようともしない。本来であれば武家に生まれた女の役目は他家と縁組を結び、友好を得ることが一番の役目であるが、傷を負い、伊達家のために嫁ぐこともできない自分に軍師である小十郎が価値を見いだせないのは仕方ないとは思っているが、あんな風に態度で示されるとつらい。視線すら合わせてもらえない、まともな会話などした記憶もない。ふぅ、ともう一度息を吐き出してはにぎわっている広間へと重い足取りで向かったのだった。
祝勝会ではしゃぐ兵士たちの歓声に手を上げて答えながら盃を干した。空になったそれに無言のまま座った小十郎が継ぎ足してゆく。そんな右目をちら、と見やって政宗は笑みを絶やさないまま視線だけでたしなめる。
「おい小十郎、そんな顔してねぇで笑え」
「───────────この小十郎の顔は生まれつきでございますが」
「嘘をつくんじゃねぇよ。祝勝会だ。空元気でもいいから笑え。命令だ」
「───────────難しいご命令でございますな」
苦笑した小十郎にそれでいいと頷いて政宗はちら、と入口に視線をやった。先ほどから酒や料理を切らせないようにと女中たちに指示を飛ばしている姉の姿が映る。小十郎とは決して交わらない瞳。だが彼女の傷を一番責任に感じているのは小十郎だというのに。
「小十郎」
「は───────────」
「話があるんだが」
「何でございましょうか?」
「姉上のことだ」
「さまの、ことでございますか?」
「Ah・・・・・・・・・・お前、姉上をもらってくれねぇか?」
「───────────」
政宗の言葉に思わず手が止まる。視線だけで咎めてくる小十郎に政宗は彼の盃に酒を注いでやった。
「恐れ入ります」
「で、返答は?」
「それは───────────主命でございますか?」
「───────────いや、俺はお前に姉上をもらってほしいから言ってるだけだ」
「理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
小十郎がまっすぐに政宗を見やるのに、政宗は逆に姉の姿を追いかけながら口を開く。
「お前、姉上の傷をいまだに引きずってやがんだろ」
「当然でございます。主筋の姫に傷をつけたこと、切腹してお詫びしても足りません」
「あんとき腹を切るっつってたのはそれかよ」
苦い口調で告げる政宗に小十郎は口を閉じた。あの日が追った怪我で実際、小十郎を切腹させるべし、という意見が当時の重臣たちの大半を占めた。無論小十郎は切腹するつもりだったが、それを止めてくれたのは政宗の父でもある輝宗だった。小十郎は政宗が当主の座を継いだ後、必ず彼の力になってくれるから自分に免じて許してやってほしい、と頭を下げてくれた彼に、小十郎は命を捧げる決意を新たにしたのだ。それに、自主的に幽閉していた部屋に泣きながら自分の側からいなくならないで欲しいと言ってくれた今の主君にも。
「で、お前にとって姉上は嫌いな女か?」
「滅相もございません!」
「だったら考えておいてくれ。どうせお前、俺が言わねぇと妻帯するつもりはねぇんだろうが。お前の気性も覚悟も姉上なら良く知っている。いい夫婦になるだろ」
「しかし───────────さまはこの小十郎を嫌っておいでです」
「Ah?」
「あれから一度も小十郎と顔を合わせることを嫌がられているご様子なれば」
「───────────Hum」
途端渋面に戻る小十郎に政宗は軽く眉根を寄せた。そんなはずはない、と反射的に言ってしまいそうになるが、そこは本人たちが自覚しないとはじまらない。「Shit」と軽く舌うちして飲み込んだ酒はどこか苦く感じた。
その日の夜。宴を終えて湯あみを済ませた政宗が部屋へと戻ってくると、まだ姉は部屋の中にいた。
「Ah・・・・・・姉上、何してんだ?」
「梵、早かったわね。少し着物をね。あなたは派手な柄の方が好きでしょう?一枚あつらえさせたの。どうかしら?」
「Thanks。いい柄だな」
「気に入ってくれた?」
「Of course。次の合戦からはこれを着て戦に赴こう」
「まぁ、ありがとう。でも無理はしないでね」
部屋にかけてある陣羽織は政宗がまだ見たことのない柄だった。蒼い素地に色とりどりの水玉を散らしたそれは戦場でよく目立つだろう。目を丸くする彼に姉は笑ってみせる。
「疲れたでしょう?すぐ出ていくわ」
「───────────姉上」
「何?」
「姉上は小十郎をどう思ってんだ?」
「小十郎・・・・・・?」
「Ah、聞かせてくれよ」
「小十郎は私のこと、嫌いなんだわ」
「Ah?」
「いつも目を合わせてくれないし、私を見るとすぐに眉間にしわが寄ってるからわかるわ。それより、どうしてそんなことを聞くの?」
「姉上は嫁ぐ気はねぇのか?」
「唐突な質問ね───────────この傷では無理ね。私はあなたの・・・・・梵のために一生伊達家に尽くすわ。それじゃダメ?」
一瞬の沈黙の後で返ってきた明るい声に政宗はぎり、と唇をかみしめる。声は明るく装っていても手はわずかに震えているし、逡巡するように迷う瞳は姉の気持ちを代弁するようで。
「嘘つきが」
「───────────え?」
「いや、なんでもねぇ。明日、朝ちっと付き合ってくれ」
「今でも構わないけれど」
「Sorry・・・・・今は、疲れてんだ」
「そうね、あなたは戦から戻ってきたばかりですものね。気が付かなくてごめんなさい。じゃ明日ね。お休みなさい、梵」
「Good night」
そのまま部屋を出て行った姉の背に、政宗は小さくひとりごちる。「嘘つき」と。彼女の気持ちは態度を見ていればわかる。小十郎のことを好いているのだ、と。たとえ傷が残っているにせよ、奥州の一大勢力になった伊達家の姫をもらいたいという縁談は山と来ていたし、中には自分からしてもいい相手だと思える者もいた。だが姉の気持ちと小十郎の気持ちを踏みにじりたくなかったのだ。自分にとって大切な二人だから幸せになって欲しいと思う。だが現実は自分が跡目を継いで何年も経つが二人の気持ちはすれ違ったまま、そろそろしびれを切らしてしまうのは当然な成り行きだった。
翌朝。政宗に呼び出されたは客間で彼を待っていた。「まどろっこしいことを」と思わずため息をついてしまったのは今朝の政宗からの呼び出しだった。通常なら女中でも使って来いと言えば済むというのに、わざわざ書状をしたためてきたのだ。自分の弟ながらいまいちやることが良くわからないと思う時はこんな時だ。約束の時刻がもうすぐ、という時だった。ふすまの向こうでカタン、と音がする。弟が来たのかと思い背をまっすぐに直して───────────入ってきた人物に目を丸くした。
「小十郎───────────」
「さま───────────」
時間が止まった気がした。部屋の中に二人きり。今まで二人きりになった記憶はほとんどない。昔は政宗の守役であった小十郎の元へちょっかいを出しては怒られてはしたものの、あの怪我をしてからは小十郎と二人でいたことなど思い出せない。だが部屋に入ってきたばかりの小十郎の瞳と見上げるの瞳が一瞬交差して、ふいと逸らしたのは小十郎の方だった。
「どう、したの?」
「いえ、政宗さまに呼び出されまして」
「そう───────────」
「さまは?」
「私も梵に呼び出されたのよ。一体何の用なのかしら」
視線は交わらないまま、ただ声だけが響く。ふぅ、と小さく息を吐いたが廊下を見ようと立ち上がろうとした時だった。部屋に入ってきた小十郎がすべてのふすま、障子を閉めての前に腰を下ろす。
「───────────小十郎?」
「さま」
「何・・・・・・・・?」
「さまの、お怪我につきまして、改めてお詫び申し上げます」
「・・・・・・・・・もういいわよ。昔の話だもの」
「いえ、この小十郎にとっては昔などではございません。責任を取らせていただけないでしょうか?」
「責任?今更切腹でもするの?」
唐突な言葉にきょとんとする。今まで彼は自分に対して負い目を感じているのはわかっていた。その負い目が自分と会うと思い出されてしまうから自分と会うのは嫌なのだと思ってきた。だが、まっすぐな彼の言葉の真意がつかめずに狼狽する。
「いえ、違いまする」
「では・・・・・・・・・」
「臣下の身なれば過ぎたる願いと存じますが・・・・・・・」
「小十郎、どうしたの?」
「さまをこの小十郎の妻に申し受けとうございます」
「───────────え・・・・・・・?」
時間が、止まった気がした。ぽかんと口を開けたままのに小十郎が手をついた。
「俺の、妻になってほしい」
「───────────小十郎、正気、なの?」
「無論。さまの存念を伺いたい」
「その前に・・・・・・小十郎、あなた私のこと、嫌いなんでしょ?」
「まさか!ただ、さまの御身に残る傷はこの小十郎の罪にございます。大変申し訳ないことをしたと───────────」
「・・・・・・・・・じゃ、私のことをどう思ってるの?」
「憎からず・・・・お慕いしておりまする」
彼の口から出る言葉に何も言えなかった。ではずっと自分のことを見てくれなかったのは彼が良心の呵責に苛まれていたということなのか、そんな都合のいいこと、と口に出かかる。
「さま」
「───────────っ!?」
「さまこそ、この小十郎を嫌っておいでかも知れませぬ。ですが───────────、御身の傷が元でさまが女の幸せを手放されるのはあまりにも悔しく───────────」
「それは・・・・・・同情、なの?」
「いえ、御身に傷をつけた以上、自分だけが妻を娶るなど許せないことだと戒めてまいりました。ですが、さまがお許しいただけるのであれば、小十郎も妻を持ちとうございます」
「別に、私じゃなくてもいいじゃない」
「この小十郎、妻にするならばさま以外はありえないと思い続けて参りました。小十郎が嫌いでしたらそう言っていただき、この気持ちをあきらめさせてくださいませぬか」
頭を下げる彼をじっと見つめる。嘘や偽りを言っているとは思えないし、彼がそんなことを言って得をするとは思えない。彼の忠誠心は露とも疑ったことなどない。それは政宗の近くにいた自分が一番よくわかっていた。それに彼が口にしたのは義務でないことぐらいはわかる。
「嫌い、よ、小十郎なんか・・・・・・」
「───────────は・・・・・・?」
「嫌いだった・・・・・だってずっと梵の相手ばかりしてるから。私を見て欲しかった。私だけの相手をしてほしかった。だからあの日、あんな無茶をしたの」
「さま」
「小十郎、あなたのせいじゃないのよ」
「───────────」
「あれは私のせいなの。だからあなたが気に病む必要はないのよ」
「───────────いえ、あれは小十郎の至らなさが御身に傷を負わせてしまったのです」
「違・・・・・・」
「違わねぇ。俺は、嬉しかった」
「え・・・・・・・・・?」
「さまが傷を負い、他家へ嫁げなくなったと知り、俺は嬉しかった。ずっと伊達家にいてくれると思っていた。俺の目の届くところに、あなたがいてくれて笑ってくれることが俺の願いだった」
「こじゅ・・・・ろ・・・・・・」
「、否やは言うな。俺の嫁になれ」
「───────────馬鹿ね・・・・・私はずっと小十郎だけを見ていたのに」
少し乱暴に告げられた声と、重ねられる手。そのまま抱きしめられる感触には小さく呟いて瞳を閉じる。そしてゆっくりと小十郎の唇が自分のそれに重ねられた。
それから少しして、政宗の姉のと竜の右目、片倉小十郎の祝言が執り行われた。首の傷は化粧で隠してはいるが、完全に消えるものではない。だが小十郎はその傷を愛おしそうに撫でて新妻の肩を抱き寄せる。
「、幸せになろうな」
「・・・・・・・・・ええ。小十郎、覚悟はいい?私は政宗の姉よ。あなた城でも家でも頭が上がらなくなるわよ」
「───────────俺は俺の嫁の尻に敷かれるつもりはねぇよ。お前こそ、覚悟して俺についてきな。政宗さまの背中を守る俺の歩みは早ぇぜ」
「梵の足ぐらい軽く追いついてみせるわ。だから一緒に梵を支えましょう」
「ああ」
普通の夫婦とは言い難い会話に当の政宗はあきれたような口調で隣に座っている喜多の耳元で口を開く。
「おい喜多、アイツら本当にちゃんと祝言挙げる気あんのか?」
「ええ。無論でございますわ。殿、さまと小十郎の二人をお祝いしてくださいな」
「祝う雰囲気じゃねぇと思うんだがな」
「ですが、ようございました。ご覧ください。さまのお綺麗なこと」
「Ah・・・・・・・そう、だな・・・・・」
傷が残るまでは美姫と言われた姉だ。今日の輝くような笑顔に政宗は目を細める。
「ま、一件落着、だな」
「まぁ。次は殿でございますよ」
「Ah?」
「小十郎とさまがお相手ですから、いつまで逃げおおせますかしら?」
「お、おい・・・・喜多、それ・・・・・・・」
「頑張りなさいませ」
にこりと笑う喜多の視線の先を見つめて、政宗はしまった、とばかりに頭を抱えた。忘れていたわけではないが、小十郎が妻帯したからには次は自分への見合いが待っているだろうことに。しかもそれを持ってくる相手は自分の姉と小十郎の二人がかりだ。一瞬唇を震わせた政宗がその翌日から義兄となった小十郎と姉から逃げ回ることになったのは、また別の話である。