呆然としたままの私をよそに小十郎は至極真面目に頭を下げる。社長は何も言わず来いとばかりに顎で中を示してその仕草に我に返った私は厳罰を覚悟した。一度目は車の中だったからまだいい。今度は会社内の廊下だ。おまけに思い出したくないけども、数時間前はお姫様抱っこで救護室に運ばれている。風紀の乱れを理由に処罰されても何の申し開きもできはしない。それに───────────社長は一人でいた訳ではない。長宗我部さんと営業の女性社員と一緒だった。彼女の呆れたような顔が目に焼き付いて離れない。社長は社員を課に戻らせて長宗我部さんと私たち二人を部屋へと招き入れた。
うなだれたまま社長室に入る。逃げ出そうとは思わなかった。もしそうしてしまったら小十郎は激怒してしまうだろう。何よりも彼が一番嫌う行為なのは私が一番よく分かっていたから。部屋に入ると私は覚悟を決めて社長の前に立った。
「社長、申し訳ありません」
「Ah?」
「どんな厳罰も覚悟出来ております」
「何言ってやがる。別に処罰しようってんじゃねぇ」
「しかし───────────」
「に悪気があるとは思ってねぇ。ま、アンタが小十郎のことを嫌がってる割には、本心は違うってのが分かっただけだ」
「社長それは!」
尚も抗議の声を上げようとした私を黙ってきいていたままの長宗我部さんの笑みが遮った。
「残念だな。のことは結構タイプだったんだがな。右目の女だったなんてな。冗談でも手は出せねえ」
「長宗我部さん!それは誤解です!」
「ってアレ見たあとで言われてもなぁ」
ぽりぽりと頭の後ろをかく長宗我部さんが小十郎と私とを交互に見ながら言うと、社長がそりゃそうだ、と混ぜっ返す。恥ずかしさと怒りにふるふると身を震わせる私とは対照的に小十郎は無表情のままだ。そして勝手に社長室のソファに座り込んで面白そうにこちらを見やる長宗我部さんが社長へと視線を移すと、社長が不意ににや、と笑う。正直、こんな笑みを浮かべるときは大抵ほかの人間にとってろくでもないことを考えているときだ、とさすがに1か月一緒にいるとわかってしまう。だけど逃げ出せるはずもない。どうやって切り抜けるか、と今度は別の嫌な汗が滲んでくる。
「、いい事を教えてやるよ。ヒトにはな、テメェのテリトリーってのがあってな・・・・」
そう言いながら、私に近付いてくる社長に思わず身を固くして後ずさる。楽しそうに、どこか無表情のままの隻眼が私を捕らえて離さない。心臓をわしづかみにされるような恐怖と威圧感。私の中に植え付けられた感情から逃れられない。ごく、と唾を飲み込む音が妙に部屋に響いた。そして一歩一歩後ずさっていく私にはそれほど広くない部屋に逃げ場なんかなかった。コツン、と踵が壁に当たって背が押し付けられる。しまった、と思ったよりも早く、社長が私の身体を縫いとめようとするのを必死で両手を突っ張って彼の胸を押し返す。
「やめて、ください───────────」
それだけを言うのがやっとだった。だけど社長はそれ以上は何もしなかった。ただ「I see」と告げて私から一歩遠ざかる。それだけなのに安堵の息をつく私ににやりと笑ってみせた。
「この一歩がアンタのテリトリーの境目ってことだ。You see?」
「・・・・・・どう、いう・・・・・」
「わかんねぇか?アンタにとって自分の腕を伸ばした範囲に他人が入ってくんのが不快だっていうことだ。それがたとえどんなに仲のいい友達、そう、美緒であってもな。許せるのは好きな男か、家族ぐらいだ。アンタにとって小十郎は特別だって心のどっかで思ってるってことだろ。じゃなけりゃ二度もキスしたりしねぇだろ」
「そんなことは───────────!」
どくん、と心臓が嫌な音を立てる。心の奥で私は小十郎を求めていたというのだろうか。突きつけられる言葉を否定することしかできなくなる。さらに言葉を重ねる前にソファに座ったままの長宗我部さんが笑って言った。
「へぇ、二度目かい?」
「Ah、それもどっちも俺の前だ」
「やるねぇ」
「ったく、見せつけられるこっちの身になれってんだ。おい小十郎、この落とし前きっちりお前がつけろよ」
「承知しております」
「女ってのはどうしてこう口では嫌といいながら心は別なのかねぇ。まぁそこがいいんだけどなぁ」
「Ha!鬼と意見が合うってのは気持ちわりぃな」
「おい、ひでぇ言いぐさだな」
「、一度目は小十郎が無理やりしたのかもしれねぇ。本当に嫌だったらその男に対してもう少し緊張感を持つんじゃねぇのか?あっさりと許してやるってのは、お前が小十郎を好きだっていう証拠だろうが。いい加減素直になれ」
「ですから、違います!私と専務とは、そういう関係ではありません」
「だったらなっちまえばいいだろ?これで一件落着だ」
「鬼、たまにはいいことを言うな」
「おきゃぁがれ」
分が悪すぎる。社長と1対1で私は言葉で勝ったことがほとんどない。なのに社長と同等、いやそれ以上弁の立つ長宗我部さんとの二人がかりとなると正直このままこの会社を辞めてしまった方がいいんじゃないかと思いたくもなる。小十郎は、と言えば二人の話に口をはさむわけでもなくじっとしている。はっきり言って、社長と長宗我部さんの言葉も怖いが、小十郎の無言の方がもっと怖い。
「政宗さま」
「Ah?」
「長宗我部もちょうどいい、証人になっていただけますか?」
「何のだ?」
「俺はと結婚したいと思っております。叶った暁には婚姻届の承認欄へのご署名をお願いしたい」
「Okey」
「ハハッ!いいぜ。いつでも連絡してきな」
「───────────な・・・・・・」
そして小十郎の爆弾発言に私は絶句した。そしてにやりと笑う社長と長宗我部さんの二人には助けを求めようとする前に退路を断たれたことを悟る。小十郎がここまで言っているということは、私が『了』と言わなければ悪人になってしまうだろう。さぁっと全身から血の気が引くのがわかる。
「って小十郎は言ってるぜ。、アンタはどうする?」
にやにやと笑みを張り付ける社長が面白そうに私を見る。だけど無言のまま硬直したままの私を見かねたのか長宗我部さんがソファから立ち上がった。
「おいおい、こういうことはせかしたらダメだろうがよ。、行こうぜ。右目、少し借りるぜ」
「おい長宗我部!」
「長い時間じゃねぇよ。俺を無理やり連れてきたのはそっちだろうが。がたがた騒ぐなよ。、行くぜ」
そういいながら私の肩を軽く叩いてついてこい、とばかりに先に歩き出す長宗我部さんの後をのろのろとついて部屋を出る。真っ青な顔をした私を長宗我部さんは社長室から少し離れたスペースに連れて行ってから軽く手を振った。
「帰んな」
「───────────え・・・・?」
「真っ青な顔してるぜ。ひでぇ顔だ。ショックだったか?」
「───────────ええ」
「へぇ。悪くねぇな」
「長宗我部さん・・・・・・?」
「の反応だ。意外に右目に分があるんじゃねぇか」
「冗談はやめてください。私は」
「だったら何でそんなにショックを受けてんだ?右目の言葉がショックだったか?だが人前でお前にキスするようなヤツだろ。想像してなかったとは言うなよ。そんなのあんたらしくない」
「・・・・・・」
「俺が言っといてやるから帰りな。そんな顔で仕事なんかできるか?」
からかうような口調。でも社長のそれとは違って長宗我部さんの言葉は私の背中を押してくれるようで私は小さく頷いた。確かに彼の言うとおりだった。こんな精神状態で仕事をしたっていいことなどないことくらいわかる。そんな私に長宗我部さんは屈託のない笑顔で私をエレベーターまで送ってくれ、私は精神的にも肉体的にも疲れた体を引きずって部屋まで帰ったのだった。
その夜、美緒と小十郎から「大丈夫か?」というメールが入ってきたけど、私は美緒だけに返事を送って布団にくるまってやり場のない思いを吐き出せないまま、結局一睡もできないまま朝を迎えてしまったのだった。