午後三時になって私は電車で長宗我部さんのオフィスへと向かった。社長は社用車(しかも運転手付)で行けばいい、と言っていたけれども私はそれを丁重にお断りして電車にした。この時間、渋滞する道路よりも電車の方が時間も費用も節約できるからだ。時間の少し前に到着してオフィスに顔を出すと、珍しいことにそこには長宗我部さんしかいないようだった。
「失礼します」
「よお、来たな」
「はい。あら、他の方はいらっしゃらないんですか?」
「あ、ああ。まぁな。今日は休みをやった。ちぃっと一人の作業があったからな」
「そうなんですか」
「コーヒーでいいか?」
「あ、いえ、お構いなく。長宗我部さん、お飲みになるなら私がやります」
立ち上がる彼の後ろに続いて炊事場についてゆく。男所帯の割りにはいつも綺麗なそこでコーヒーメーカーを使おうとしている長宗我部さんに私はカップを二つ出して並べてゆく。
「長宗我部さん」
「なんだ?」
「先日はありがとうございました。助かりました」
「ああ。あれから大丈夫だったか?」
「ええ。それよりも長宗我部さんこそ、片倉に何かされませんでした?」
私のその言葉に長宗我部さんは思わず吹き出した。何故か腹を抱えて笑う彼に私はきょとんと彼を見つめていた。
「あの、私何か変なこと言いましたか?」
「いや・・・・・・あんた・・・・・・やっぱ面白ぇ」
「え───────────?」
くっくっと笑いながらの言葉に私は困惑する。そんなつもりもないし、何がそんなにおかしいのかがわからない。だから笑ったままの彼を放っておいてコーヒーをセットし、少ししてからいい香りが漂い始める。そしてコーヒーが出来上がっても彼は笑うのをやめなかった。
「どうぞ」
「ああ、すまねぇな」
結局私が作ったコーヒーを差し出すと、彼はまだ笑いながらミルクと砂糖を私に渡してから、そのまま炊事場で口をつける。
「で、あれから右目からは何か言われたか?」
「あ、いえ。別に」
「そうか。良かったな」
にこりと笑う彼の笑顔に、私は思わず釘づけになった。何て笑顔を見せる人なんだろう、と思う。小十郎のように清濁を飲み込んだ大人の笑顔でもなく、社長のように何かを含んだような笑みでもなく、ただまっすぐな笑顔だったから。
「どうしたんだよ?」
「いえ、あの・・・・・それよりも今日の御用は何でしょうか?」
「ったく、つれねぇなぁ」
「───────────仕事ですから」
カタン、と飲み干したカップを置いて彼を見上げる。だけど彼は何度か私をちらりと見上げてから目を逸らし、カップを抱えたままうつむいた。
「あんたさ、右目とは本当に付き合う気はねぇのか?」
「───────────はい?」
「なぁ、答えてくれよ」
「───────────ありません。彼との関係はもう終わったものですから」
「そっか───────────じゃあさ、俺を試してみる気はないか?」
「───────────はい・・・・・・?」
「別に右目がアンタを諦めるまでのつなぎでもいい。なぁ、俺たち付き合ってみないか?」
「長宗我部・・・・・さん・・・・・・?」
あまりにも唐突な言葉に私は驚いて彼を見返した。冗談を言っている雰囲気じゃなかった。小十郎が私とよりを戻したい、と言ったときと同じ表情をしていた。彼と会ったことはまだ数回しかない。それも全部仕事を通じてだ。何故彼がそんなことを言い出すのかがわからない。だから私はしばらく迷ってから口を開く。
「それ・・・・・は・・・・・・同情、ですか?」
「おい同情って何だ?」
「私が困っているのを放っておけない、という」
「違う。そんなつもりじゃねぇ。ただ───────────、あんたここに初めて来た日のこと、覚えてるか?」
「え、ええ」
「ひどい顔してたな、あんた」
「───────────」
その言葉に思わず息を飲み込んだ。そうだった。あの日車の中で無理やり小十郎にキスをされて、私はどうしようもないほどひどい感情をもてあましていた。自分ではうまくごまかしたつもりが、それがやはり顔に出ていたのだろうか。
「だが次に来た時はすっげぇ有能な秘書の顔してた」
「───────────そう、でしたか?」
「ああ。で、友人と会ってるときのあんたは、そりゃあいい笑顔だった」
「え───────────?」
「あんたのあんな顔、もっと見てみたいって思ったんだ」
「───────────」
「俺にだけ、見せる顔を見てみたい。これってやっぱり惚れてんだろうな。だから同情とかってんじゃねぇ」
下を向いていた彼の瞳が私を見る。熱を孕んだ男の目、だった。小十郎が私を見るのと同じ瞳。違う人なのに、彼の表情と小十郎が重なって見えた。
「あの───────────」
「すまねぇな、困らせるようなこと言って」
「え?い、いえ。ありがとう、ございます」
「今日じゃなくてもいい。答えが出たら聞かせてくれや」
「───────────」
長宗我部さんが私に向かって手を伸ばす。頬に触れようとするそれに私は何も言えないまま硬直していた。何で───────────何で私の目には長宗我部さんと小十郎が重なって見えるの?仕草も何もかも違う人、でも私の瞳にはどこか彼と小十郎が重なって見える。熱を孕んだ瞳も、私の答えを待ってくれる態度も、伸ばしてくる手も。小十郎が触れてきたそれと重なる───────────。私は何てひどい女だろう。こんなにも熱心に言ってくれる人なのに、心がまるで固まってしまったかのように何も感じない。ただ、小十郎の面影を追いかけているような感覚に小さく首を振った。
「長宗我部さん」
「何だ?」
「その・・・・・・・・ありがとう、ございます。でも」
「おっと待った」
「───────────え?」
「ったくいくら何でも即答はねぇだろうが」
「い、いえ、そんなつもりでは」
「そんなつもりだろ?俺とは付き合えない。違うか?」
「あ、あの・・・・・そういうわけでは・・・・・ただ年齢が」
「あぁ?」
「私はもう30半ばです。長宗我部さんより一回り近くも年上です。そんな女と付き合っていると言われては長宗我部さんのご迷惑になります」
「俺は気にしねぇ。年齢なんて関係ないだろ。俺はあんたが欲しい。それだけだ」
きっぱりと言い切った彼はカップを置いて私の身体に覆いかぶさるように壁に縫いとめられる。目を丸くしたままの私に彼の顔が近づいてくる。
「それとも───────────、やっぱりあの右目がいいのか?」
「そうではありま───────────っ」
「だったら、わかるだろ?」
指先で私の唇に触れて、彼の唇が触れるか触れないかのぎりぎりのところで止まる。す、と指先で唇をなぞられて思わずびくん、と身体が震えた。そして───────────、彼の唇が私のそれに触れた。それ以上は何もしてこない優しい、優しい、触れるだけのキス。不思議と嫌だとは思わなかった。でも、私はゆっくりと彼の胸を押し返す。それに逆らわずに身体を離すと、うつむく私の肩に手が触れる。
「抱きしめて、いいか?」
「───────────いえ、すみません」
「わかったよ。だがあんたの気が変わったらいつでも電話してきてくれ。あんたを待ってる」
軽く首をふると、彼はそれ以上は無理強いをしなかった。すっと離れて、何やらメモをするとその切れ端を私の手の中に押し込んだ。そして私は急いで彼のオフィスから逃げ出した。
ビルから出て手近なカフェでコーヒーを注文してテラスに出る。長居をしたかったから一番端の目立たない席で私は大きく息を吐いた。
「最低───────────」
自己嫌悪に頭を抱える。ちゃんと断るべきだった。彼の気持ちにこたえられないのなら、あの場でキスなど許さなければよかった───────────。優しくしてくれた彼に私は最悪な形で彼を裏切ってしまった、そんな自己嫌悪に囚われる。ちゃんと私の意志を尊重してくれた。私が断ればキスをやめてくれていた。雰囲気に流されて何も言えないまま許してしまった私が悪い。何度同じことを繰り返せば済むのか、小十郎と関係を持ってしまったときもそうだった。断ればいい、と思っていたのに断れなかった。その結果がこれだ。いざという時にはっきりと言えない自分の性分が恨めしい。
手のなかにあるメモの番号を携帯に入れる───────────でも発信はできなかった。そのまま画面を落としてふぅ、と溜息をつく。もう何度同じことをしたのかわからない。だから番号は頭に入ってしまっていた。もうメモを見なくても長宗我部さんの番号はわかる。何度目かの繰り返しの後で、結局電話を掛けることができなくて私はテーブルに突っ伏した。
途端、手の中の携帯が震えて驚いて飛び起きる。見れば着信は会社から。時計を見れば驚いたことにすでに終業時刻を指していて、まずいと思いながら私は慌てて電話を取った。
「はい、です」
『おい、テメェどこにいやがるんだよ』
「も、申し訳ありません。少し、考え事が」
『Ah?恋の悩みか?』
「社長、申し訳ありません。本日は直帰させていただいて構わないでしょうか?」
社長の挑発を意図的に無視してそう告げる。いつもの社長ならきっと『仕方ねぇなぁ』と言ってくれるだろう、と期待して。でも電話口から返ってきたのは意外な言葉だった。
『いいわけねぇだろうが!帰ってこい!』
「え───────────?」
『』
「はい?」
『長宗我部が来てるぜ』
「───────────っ!?」
『ずっとアンタを待ってる。で、アンタ、今日長宗我部んトコ行ったんだよなぁ?長宗我部が言うにゃ、アンタは一時間以上前にオフィスを出たって言ってたぜ。秘書に調べさせた。長宗我部のオフィスまでここから地下鉄だと10分とかからねぇ。で、アンタ今までドコで何してた?』
「───────────申し訳、ありま」
『謝んのはいい。帰ってこい。命令だ』
「───────────かしこまり、ました───────────」
断固とした社長の言葉に逆らうことなどできなかった。手が震えているのがわかる。きっと蒼白になってしまっているだろう頬に携帯の無機質な冷たさすら感じなくなっていた。どうしよう───────────、どうすればいい───────────。ぐるぐると思考が頭をよぎる。美緒なら、きっと今の私を見れば怒ってくれるに違いない。「は仕事にかけては超有能で、てきぱきしてて、決断力もあるけど、恋愛は結構奥手だよね。でもさ、時々は自分の気持ちを言わなきゃわからないよ」と。だけどその自分の気持ちすらわからくなってしまっている。でも逃げるわけにはいかなかった。私は重い気持ちのままカフェを出て会社に戻るために地下鉄の駅へと向かった。