それから一週間経っても小十郎によって罷免された役員たちから書類が提出されることはなかった。私は彼らの秘書に掛け合って何度も提出を求めたけれど、突然の罷免によって引継ぎをするのが先と引き延ばされているのが現状。ふぅ、と何度目かわからない溜息をついて私は休憩をしようと給湯室へと向かう。伊達の子会社だからなのか、もしくはここの慣例なのかはわからないけど、各フロアにコーヒーを豆から挽く自販機が無料で設置されていて、冗談抜きで結構おいしい。他の飲み物も無論無料で置いてあって、いい環境だと感心してしまう。
「お疲れ様です」
「ああ・・・・・・お疲れさまです」
給湯室には先客がいた。すらりと背が高く髪は肩ぐらいのショートボブ、整った顔立ちにきびきびと歩く姿はモデルのよう。女性社員全員に支給された制服をきっちりと着こなしているのは確か雑賀さんという派遣社員だった。彼女が自販機からカップを受け取るのを待ってコーヒーのボタンを押して豆を挽くいい香りが充満してくるのにほっと息をついて、おいしそうにコーヒーを飲む彼女になんとなしに話しかける。
「休憩ですか?」
「ああ」
「大変ですね」
「何が?」
「え・・・・・・・?」
「私は給料分の仕事をするだけだ。それよりあなたの方が大変だろう。片倉専務付の仕事は私より大変なはずだ」
「ま、まぁ・・・・・・・」
堅い口調なのは彼女のクセだ。最初に話しかけたとき嫌われているのかと心配したけど、どうやら違うらしい。彼女は誰に対してもこの物言いで、一種独特な雰囲気がある。自分の分のカップを取っているから、私と話したくなければそのまま席に帰ってしまえばいいけれど私を待っていてくれる、ということは話をしてもいいという意思表示だ。役員たちがそうだったように、一般社員たちの間でもいまだに男尊女卑の意識は根強くて女性は良くて電話応対と書類作成、それ以外はお茶くみとコピーだけをやって日がな一日遊んでいる社員だって少なくない。
小十郎はあれから全社員に自分の仕事についてのレポートを提出させていた。適当なレポートが多い中、群を抜いてちゃんと自分の仕事をこなしているとわかるレポートが彼女のものだった。私は彼女に興味を持って彼女の職場に視察の名目で顔を出して、やはり予想以上にきちんと仕事をしているという印象を受けた。正直そこらの男性社員よりも仕事ができる。何度か話しかけているうちにこんな世間話にも付き合ってくれるようになったのが少し嬉しい。
「」
「はい?」
「あなたが片倉専務の愛人ではないかと社内では噂になっている。同じマンションに住んでいる、と」
その言葉に自販機から取り出したカップを危うく落としそうになった。見れば彼女は興味本位ではなく、単なる事実確認のような表情でこちらを見ていて、私は小さく肩をすくめた。
「同じマンションに住んでいることは否定しません。社長から与えられたマンションですから」
「それは、社宅という意味か?」
「ええ。東京からこちらに出向する社員のための部屋だと聞きました。期間限定での出向だと引っ越すのにもお金がかかりますから。会社で持っている部屋を社員に貸与しているそうです」
「成程、それでは同じマンションなのは仕方ないな」
「それから愛人というのも違います。片倉専務は結婚してないはずでしょう?」
「そう、だな。だったら恋人という方が正解か?」
「違います」
「だが、それにしては───────────」
「はい?」
「片倉専務はあなたとの距離を随分詰めるんだな」
「は───────────?」
「あの人は何度かここに視察に来ていたが、女性社員がアプローチをしていてもけんもほろろに断っていたが、あなたとの距離は少々近いと思うのだが」
さすがというかなんというか、観察眼の鋭さに一瞬絶句する。確かに私と小十郎は以前に付き合っていた。身体の関係もあった。だから彼に触れられるのは別に嫌じゃない。そう言われてしまうとそうだったのかも、と反省する。小十郎が紳士的に伸ばしてくる手が腰に回っていても気にしないのが当たり前になっていたけど、まったく関係のない男女がそんなことをするわけもない。
「昔───────────」
「?」
「付き合っていたことがあります。その名残では?」
「───────────隠さないのか」
「あなたに隠してもすぐにばれそうですから」
「成程」
口の端を上げるような笑い方で飲み干したカップをゴミ箱へと投げる。綺麗な放物線を描いて吸い込まれていくのに私は思わず「お見事」と口に出していた。
「では噂に関しては私から否定しておこう」
「助かります」
「それより、大丈夫か?」
「え───────────?」
「この会社の体制はあなたもわかっただろう。昔ながらも男尊女卑が未だに生きている会社だ。やりにくいんじゃないか?」
「まぁ・・・・・・でもそれが仕事ですから」
「あなたは、強いな」
ふっと笑う彼女に口ごもる。私が強いわけじゃない。ただ自分のプライドのためにやっているだけだ。負けたくない、といえば一番しっくりくる。社長にも小十郎にも、自分にも負けたくないだけなのに。
「さて、そろそろ戻るとしよう」
「ええ。雑賀さんありがとう」
「別に礼を言われるようなことはしてない」
手を上げて給湯室を出ていく彼女を見送って、私は熱いコーヒーをすする。一週間のうちにこの人生での我慢強さを試されているような気がする。それは伊達に移籍したときにも思ったが、あの時の経験がなければきっと不満が爆発してしまっただろう。その意味では社長に感謝しなければ、と思う。あの社長からの嫌がらせに耐えたからこそ今も耐えられる。会議に出れば女だから、という理由で無視され、発言しても鼻で笑われる毎日だ。今は小十郎の指示でこの会社の数年分の経理の書類の再点検をしているけれど、社員が100人近くいる会社だ。その書類の多さに辟易しそうになる。今日も朝から点検を続けて一息ついているところなのだ。
「そろそろ戻らなくちゃ」
ふぅ、と息をついて自分に気合いを入れる。もう一杯コーヒーを淹れて私は自分のデスクへと戻り仕事を開始させた。
しばらく書類とにらめっこをしていると、小十郎が戻ってきた。今日は彼は罷免した役員たちの元を回っていたはずだけど、その渋面を見れば進捗状況などわかりそうなものだ。鞄を置いてやや乱暴にネクタイを緩めてどっかと椅子に腰を下ろす。
「いい香りだな」
「コーヒーですか?」
「ああ。悪い、俺にも淹れてきてくれねぇか」
「お断りよ。自分でどうぞ。私はお茶くみのためにいるんじゃないわ」
「じゃあそれをくれ」
「え!?ちょっ───────────小十郎!?」
すっと手を伸ばされて私の机のカップをかすめ取る。私が抵抗する間もなく小十郎はカップを手にして飲み干してしまう。あっけにとられる私に小十郎はにやりと笑ってみせる。
「うめぇな」
「最低───────────」
「アァ?別にいいだろ?」
「いいわけないでしょ。ここは会社よ。はぁ、もう・・・・・・」
「おい取ってくるなら」
「わかったわよ。あなたのも持ってくればいいんでしょ」
持ってきた先から彼に取られていたんじゃ仕事にならない。諦めて立ち上がる私に小十郎はひら、と手を振ってみせた。
「頼む。濃いめでな」
「知らないわ」
仕方なく給湯室でコーヒーを二つ淹れて席に戻る。彼の机にコーヒーを置くと「すまねぇな」と言うけれど本当に感謝しているかどうかはわからない。無言のまま私は自分の席に戻って仕事を再開させる。しばらく二人で仕事に没頭しているうち、小十郎のテーブルの電話が音を立てた。
「はい、片倉───────────政宗さま!?」
数コールもしないうちに受話器を取った小十郎のトーンが変わる。その相手に私も顔を上げた。小十郎は毎日のように報告をしているようだったけど、社長から連絡してくるなどめったにない。社長との会話に緊張を隠さない小十郎に珍しいと思いながら手を動かしていると、小十郎はすっと瞳を細めた。
「ええ、それは───────────、はい、はい、かしこまりました。はい・・・・・・・・」
少し話をして終わらせたらしい小十郎が私に受話器を差し出す。反射的に受け取ってしまった私はそれを耳に当てる。
「はい、です」
『Hey、、そっちは楽しんでるか?』
「社長、ご用件をお伺いします」
『Hum、相変わらず可愛くねぇな』
「それは申し訳ありません。それで───────────」
『こっちに戻ってくるチケットだが昨日秘書に送らせた。今日あたりに着くはずだから受け取れ。それから次回からはそっちで準備しな』
「ありがとうございます」
『で───────────、小十郎とは何か進展はあったか?』
「ありません。社長、ご用件はそれでしたら切らせていただきます」
『おい!テメェ───────────』
電話の向こうで何かを言っていたけれど、私は無言のまま受話器を置いた。結局楽しんでいるとしか思えない彼にムカッとくるけど、一応心配してくれていたらしいので黙っておく。私に向かって問いかけの視線を送る小十郎に私は小さく告げた。
「今週の東京への帰郷のチケットをお送りいただいたそうです。次回からはこちらで用意するように、と」
「そうか」
それだけじゃないだろ、と顔に書いてあるけど、私は無言のまま席に戻って仕事を再開させる。本当に前途多難、といいたくなる状況に私はやけになって机の上のカップの中のコーヒーを飲みほして、もう一杯を継ぎに席を立った。