土曜日、まだ早い時間に私は東京まで戻ってきた。始発に近い時間に仙台を出てわずかに一時間半。うとうとしている間に東京駅だった。喫茶店はまだモーニングを出している時間帯だからいつもは大混雑の東京駅も人は少ないように感じられる。そして電車を乗り換えて自宅にたどり着くと、私は柄にもなく泣きたくなった。
ああ、ここが私の家だ、と思う。私自身はそうは思ってなかったけど、仙台に行っていた間余程気を張っていたらしい。
荷物を置いて、お湯を沸かして仙台のマンションから拝借してきたドリップコーヒーを淹れる。独特の芳醇な香りが部屋に広がってカップを持ってリビングに腰を下ろしてテレビをつけると、ようやく人心地がついた。
「はあ・・・帰ってきた」
土曜日の朝だから情報番組ばかりだけど、ぼうっとしながら流し見る。何もしないまま気がつけば小一時間が過ぎていて、空になったカップを片付けようとした時、携帯がメールの着信を告げた。見れば美緒からのランチの誘いだった。
正直面倒だな、と思うけれど、それ以上に美緒のほんわかとした空気に接していたかった。二つ返事で了解した旨のメールを出して私は部屋を見回した。当たり前だけど何も変わっていない。社長が手配してくれたホームヘルパーさんには掃除だけを頼んでいるから身の回りのものに触られた痕跡もない。そのことに安心しながら私は昨日のことを思い出した。
昨日の夜、小十郎は私に定時に上がるように、と指示を出した。こちらに来てから私たちは定時に上がることなんかなかった。いつもマンションに帰るのは午後8時すぎ。それでも私にとっては早い時間だと思ってしまう。自分の会社を持っていた頃は午後10時すぎまで会社にいるのは当たり前だったけど、今はそれ以上の多忙を極めていたから猶更だ。午後8時というのは会社のビルそのものの電源が落ちてしまい、強制的に追い出されてしまうから仕方なく、だった。それから私たちは大概どこかで食事をして帰るか、もしくは小十郎がふるまってくれる料理に舌鼓を打つ。だけど珍しく彼は私に先に帰れと言ったのだ。
「専務?」
「お前は明日東京に戻るんだろうが。支度もあるだろう。構わねぇから先に帰れ」
「───────────専務は帰られないのですか?」
「俺はこっちでやることがある。お前と違って東京でやることもねぇからな」
お互い手を動かしたままのやり取りに私は驚いて顔を上げた。てっきり社長に会いに行くのかとばかり思っていたからだけど、彼はこちらを見上げることなく口を開く。
「政宗さまには毎日テレビ電話でご報告をしている。政宗さまもいい年だからな。俺がいなくても大丈夫だ。それに今の俺がやることはこの会社を立て直すことだ」
こともなげに言ってそのまま書類に視線を落とす。私も小十郎に倣って残るべきなのかしら、と思ってみるけど、ふと顔を上げた小十郎が私を見る。
「、こっちで用がねぇなら帰れ。政宗さまのお心を無駄にすんじゃねぇ。いいな」
「でも───────────」
「それとも、こっちに残るんだったらデートでも行くか?」
「───────────帰らせていただきます」
にやりと笑う彼に溜息をつく。からかわれているのはわかっているけど、言葉を返してやれるほど私も余裕があるわけじゃない。それだけを言って仕事に戻る私に彼はくつ、と笑う。
「即答しなくてもいいだろうが」
「します。専務、仕事中にくだらないことをいわないでください」
「」
「───────────はい」
「だったら日曜日は早めに戻れ。夕食は一緒に食おうぜ」
「それは、ご命令ですか?」
「いや。だが来週の仕事の打ち合わせをしたい。無理に、とは言わねぇぜ」
「わかりました。夕方には戻ります。戻りましたらご連絡します」
「それでいい。駅までの送り迎えはしてやる。感謝しろ」
「結構よ。タクシーで行くわ。それより本当に帰らないの?」
「ああ」
頷く彼に私は何も言わずに書類に視線を戻した。こうなったら小十郎は絶対に梃子でも動かない。動かせるとしたら社長ぐらいだろう。だから私はそのまま仕事をつづけ、定時の鐘が鳴った途端、小十郎にせっつかれるようにしてマンションに戻ったのだった。
久しぶりの新宿は雑踏と人の波にのまれそうな錯覚を私にもたらした。つい2週間前は当たり前の光景が懐かしさとこんなに人が多かったのか、と驚きに満ちていた。駅の南口で美緒と待ち合わせているけれど、私の前に現れたのは意外にも慶次だった。両手を広げて喜びを表現する彼のいでたちはやっぱり派手だった。周りの通行人が振り返るほどの原色を並べた服に私は目を丸くする。
「わ、ちゃんお帰り〜!」
「慶次?どうしたの?」
「え?だってちゃんが勝手に仙台に行っちゃったからさびしかったんだよ」
「それは悪かったわね。それより美緒は?」
「もうすぐ来るんじゃない?今日は旦那さんに子供を預けてくるって言ってたからさ」
「そう。で、何であなたがいるの?」
「ひっでぇなぁ。俺だってちゃんに会いたかったんじゃないか。それに美緒ちゃんともね。一緒に食事するのは久しぶりだろ?」
「───────────私は美緒と二人かと思ってたんだけど」
本心からだったけど、どうやら慶次にとってはショックだったらしい。がくりと肩を落とす彼の姿はまるで小動物をいじめているようで、私は苦笑して彼の肩を叩いてやる。
「悪かったわよ。慶次も元気で良かったわ」
ぽんぽんと軽く叩くと、改札から歩いてくる美緒の姿が目に入ってきた。私は思わず手を振ると、美緒も笑って駆け寄ってくる。
「〜〜!お帰り〜〜!」
「ただいま!美緒!」
手を伸ばしてくる彼女に私のそれを重ねて笑う。彼女に会うと自然に笑顔が戻ってくる。私にとってはとても大切な友人だと本当に思う。そしてひとしきり話をして私たち三人はレストラン街に向かって歩き出した。
ランチはすぐ隣のレストラン街の中のお店に決めた。三人でパスタとピザをそれぞれ頼み、わいわいとシェアをする。美緒は子供に持って帰ってあげたいな、などと言いながらも瞬く間にテーブルの上は空になっていった。
「で、仙台はどうなの?」
「どうもこうもないわ。本当に社長に嵌められたとしか言えないところよ」
「って、、その言い方すさんでるよ。じゃあ味方って専務だけ?」
「まぁ───────────そうね」
「ふぅん。専務ってものすごい辣腕だって聞いてるけど、大丈夫なの?」
「辣腕なんてかわいいものじゃないわ。社長も化け物だと思ったけど、小十郎の方が性質が悪いわ」
「どんなとこが?」
「ま、いろいろ、よ」
美緒が不思議そうに首をかしげるのに私は適当に口を濁した。正直小十郎がやっていることの半分は下手をすればパワハラと訴えられるようなことばかりだ。まぁ相手は平然と男女差別を持ち出す役員たちだからどっちもどっちだけど。それに小十郎は慎重に罠を張って相手をそれに嵌める、といういやらしい方法を持ち出すことさえ抵抗がないからさらに厄介なのだけど。
「だったら専務に頼るしかないのかぁ。へぇぇ───────────」
「美緒、何?その言い方」
「ううん。何か、専務も本気だなぁって」
「それはそうでしょ。社長直々の指示だもの」
「違うよ。のこと」
「私?」
「うん。周りは敵ばかり。味方は自分だけ。で、マンションも隣って、最高においしいシチュエーションじゃない」
「へ!?ちゃん、あいつの隣のマンションなの!?」
「一応ね。言っときますけど、マンションのワンフロアを会社が持ってて、仙台へ出張する社員たちのホテル替わりに使ってるだけ。長期で使ってるのは小十郎と私だけど。だから別に他意があるわけじゃないわ。引っ越すかマンスリーマンションを借りるよりも経済的だからそこをあてがわれてるだけ」
瞬間で目を輝かせる慶次に釘を刺しておくと、慶次は大仰に肩をすくめる。
「なんだよ、面白くねぇなぁ」
「慶次、あなた誰の味方よ」
「俺?俺は恋をしてる人の味方。命短し人よ恋せよってね」
決め台詞、とばかりにウィンクをする彼に美緒は楽しそうに笑い、私は半分冷ややかな視線を浴びせて食後のコーヒーをすする。慶次らしいといえば慶次らしいけど、今は正直そんなことを考えている暇はない───────────小十郎のことは今回のことが終わったらちゃんと考えなければならないのだけれど。
「ちゃん───────────?」
「あ、ううん、なんでもない。それより美緒、今からちょっと遠出してアウトレット行こうよ」
「アウトレット?うん、いいよ。じゃ慶次くんは荷物持ちね」
「いいよ。美女二人のお供なら喜んで」
「ちょっと慶次は来ないでよ。会社の話できないじゃない」
「ひっで!美緒ちゃ〜ん、ちゃんがひでぇよ」
「まぁまぁ、は仙台で大変なお仕事をしてるんだから。じゃ慶次くんはまた今度ね」
「美緒ちゃ〜〜〜ん!」
大げさに手を広げる彼にまわりの客がひそひそと話しているのを感じて私は慌てて慶次を止めた。当の本人は気づいていないようだけど、美緒は面白そうに笑っているだけで慌ててるのは私だけだ。それに慶次も私の言いたいことを察してくれたようで、小さく舌を出しておどけてみせると、机の上のジュースを飲みほした。
「へいへい、だったら邪魔者は退散しますよ。あとは二人で楽しんできて」
「うん」
「ありがと、慶次」
「じゃあちゃん、お仕事頑張ってね!美緒ちゃんも」
「は〜い」
「じゃあね」
手を振って立ち上がった慶次はさりげなく伝票を持っていってくれた。大丈夫なの?と美緒に聞くけど、彼女もたまにはいいんじゃない?と笑って私たちはゆっくりとお茶を楽しんでから久しぶりに二人きりでの時間を楽しんだ。