片づけを終えると私は雑賀さんの部署の内線を調べてコールする。突然会いにいく、ということも考えたけれどさすがにそれでは彼女にも迷惑だろうと考えたからだ。数コールで彼女は出た。話をしたいので時間をもらいたいと告げると、案外あっさりと頷いてくれた。今から行きます、と告げて電話を切ると、小十郎はまだ部屋で資料に目を通していた。立ち上がる私にひらりと手を振ってみせる。
「ま、せいぜい頑張れや」
明らかに徒労に終わるだろ、と言いたげな口調にカチンとくるけど私は無視して部屋を出る。
「ちょ、ちょっとぉっ!さぁんっ!僕を置いていかないで・・・・・・」
その私の背中を甘えた声が打った。忘れていた。部屋にまだ小早川くんがいたんだった。さすがに小十郎と二人きりになる度胸はなかったんだろう。慌てて飛び出してくる様に笑みを誘われる。くすくすと笑う私に彼はちら、と見上げて言った。
「あ、あのっ!僕にできることはやりますけど・・・・・その・・・・・・役員ってのはやっぱり」
「いえ。期待しています。一緒に頑張りましょう。すみません、私は人と会う約束をしてますので」
「えぇぇぇっ!?」
「小早川さん」
「は、はい?」
「後程今日の資料のデータを送ります。小早川さんは明日までに費用対効果を上げる方法を考えてください」
「あ、明日!?」
「ええ。もちろんです。私もいくつか考えていきますから。明日の午後会議室を押さえておきます。時間はまたご連絡します。では」
「え・・・・えぇぇっ!?」
にこりと笑って足早にその場を去る。悪い子じゃないのは見ていてわかるけれど、正直何をするにも少し時間がかかりそうだな、と思う。だがこの会社には珍しく前向きの意見を告げてくれたから小十郎は彼を執行役員に任命したのだろう。もしかしたら───────────彼以上の人材がいつ出てきてもいいように、と考えているのかもしれないけれど。
雑賀さんの部署に着くと、彼女は心得ていたようですぐに席を立ってこちらへと向かってきてくれた。廊下の向かいにある会議室を「使用中」のプレートに変更すると私は彼女と二人で向かい合って腰かけた。
「仕事中にごめんなさい」
「いや。特にこれといった仕事はしていないからな。それよりも話とは?」
「雑賀さん、今派遣社員で働いてらっしゃいますよね?」
「ああ。それが何か?」
「正社員になるつもりはありませんか?」
「?」
「今、私たちはこの会社の立て直しを図っています。ただ、やはりこの会社には優秀な社員は少ない。役員にしても同じことです。高見を目指してくれる社員、役員を一人でも多く確保したいんです」
「───────────その気持ちはわかるが、何故私だ?」
「雑賀さんなら力になってくれると思うからこそです。もしあなたがYesと言っていただけるのなら私はあなたを正社員としてすぐにも認めさせます。その上で、私たちの力になってください」
彼女には回りくどい言葉など必要なかった。ズバリと告げる私にしばらく黙っていたけれど、やがて彼女は小さく笑って額に手を当てた。
「驚いたな」
「はい?」
「あなたがそんなことを言うとは。私を社員にするだけじゃなく、役員にでもするつもりか?」
「ええ。そのつもりです」
「、私は別に火中の栗を拾うつもりはない」
「でも───────────!」
「そんなにこの会社は人材不足なのか?」
「ええ。もちろん」
「即答するか」
くつ、と笑って私を見る。真面目に聞いている私を面白がるような仕草にどこか社長を思い出す。でも私にとっては遊びなんかじゃない。何とかして彼女を説得しようと口を開いた私を彼女は軽く手を上げて制した。
「あなたの立場はわかる。優秀な人材が欲しい、というあなたの気持ちもな。だが私はあなたの力になることはできない」
「それはどうして」
「私にその気がないからだ。私にとっては今の立場は心地いいからな。時間までのんびりしていれば給料がもらえる。仕事なんかろくにしなくても、だ。派遣である以上、これ以上楽な職場はない」
「雑賀さん───────────」
「、私を買ってくれたことには感謝する。だが私は今の立場から鞍替えするつもりはない。それで納得してくれないか」
納得などできるはずもなかった。彼女が言っている内容が本心からであるのかどうか、今の私には判断ができなかった。でも、彼女はまったく取り合うこともしない、という事実に頷くしかできなかった。
「わかったわ。無理を言ってごめんなさい」
「いや、あなたの気持ちは嬉しかった。答えられなくてすまないな」
言うだけ言って立ち上がる彼女にこれ以上何も言えなかった。会議室を出て行く彼女の背を私はただ見送ることしかできなかった。
部屋へ戻った私の表情で結果がわかったのだろう。小十郎が無言でコーヒーを差し出してきた。珍しいこともあるものだわ、と思いながら断る理由もないから受け取って口にする。私好みの味のそれに小さく息を吐き出すと、小十郎は自分のデスクに戻って書類に目を通し始める。
「ダメだっただろ?」
「───────────ええ」
「やはりな」
「どうして」
「アァ?」
「どうしてこうなるってわかっていたの?」
「まぁ、そんなもんだろ。それよりもボケっとしてる暇があればこれに目を通せ」
クリアファイルに入れた書類の束を投げてよこす小十郎に危ない、と文句の一つでも言おうかと思ってけど、彼に対してそうしている時間が無駄なのはわかっている。はぁと溜息をついて中身を確認すると、途端に仕事モードに切り替わってゆく。
「どうだ?」
「ええ、いいかも」
「だったら明日社員に告知できるようにしろ。やり方はすべて任せる」
「───────────わかったわ」
小十郎から渡されたのは社則の変更の案だった。簡単な言い方をすれば男女差別をなくすべき、というものを文書にしたものだ。告知したところで変わるとは思えないけれど、ないよりは絶対にましだ。頷きながら私は自分のパソコンを起動させる。メールをチェックすれば、渡された資料がデータでメールボックスに届いていて、私は時計とにらめっこをしながら仕事を進めていった。
ふと顔を上げると、時計の針が午後7時半を回っていた。何やら騒がしいと思ったのは気のせいじゃないらしい。そろそろ退社時間が近いせいなのかもしれない。顔を上げた私に小十郎は渋面のままちら、と視線だけを上げて見せる。
「、そろそろ帰る準備をしろ」
「え・・・・・あ、そうね」
この会社は自動的に午後8時には電気が消える。電力が一斉に落ちるような設計になっているのだ。だからパソコンを使った仕事もこの時間までしかできない。途中までのファイルを保存して自分の家のパソコンへと転送する。パソコンのシャットダウンまでの一連の作業が終わって化粧を直しに立ち上がろうとする私に彼が言った。
「今日は地下に直接降りるからな。早めに戻ってこい」
「───────────?わかったわ」
何故か彼から緊張が感じられて勢いにつられるように頷く。何故そんなことを言うのかは謎のままだけど、部屋を出てお手洗いに向かう。部屋の中で感じた騒がしいと思った喧噪がさらに耳に届いて私は首をかしげる。退社する際の社員たちの会話が漏れてきているわけじゃなさそうだ。ここは仙台の一等地であるけれどいわゆる夜の街からは少し離れたところにある。だから酔っ払いたちの騒々しさからは無縁な場所だ。それに───────────、オフィスビル、しかも高層のそれはただそこにあるだけである程度の威容を感じるものだから、あまりそういった手合いが近寄っては来ない。何があったんだろう、と思いながらも化粧直しを済ませて部屋へと戻る。すでに小十郎は帰宅の準備を終えていた。ごめんなさい、とだけ告げて資料をクリアファイルに入れて荷物をまとめると、小十郎は私の手にある封筒を指した。
「それ鞄の中に入れておけ」
「え・・・・・・?どうして?」
「いいから言うとおりにしろ」
「小十郎?」
首をかしげながらも、小十郎の視線がふざけているわけじゃないことを感じて鞄に入れてチャックを閉める。そこまでを確認すると小十郎は私の背に手を回すようにして部屋から出るように、と手振りで示す。電気を消しエレベーターから階下へ降りる間に彼はちら、と私を見て口を開く。
「それから俺がいいと言うまで口を開くな。何を聞かれてもノーコメントで通せ」
「え・・・・・・・?」
「何があっても俺について来い」
「小十郎、どうしたの?おかしいわよ」
「おい、約束を忘れたわけじゃねぇだろうな?お前は俺の指揮下にある。指示には従え」
「───────────わかったわよ」
彼の言っていることの意味がわからない。でもピリピリとした空気から何かあるんじゃないかとは思うけど、突然そんなことを言い出した彼に理由を聞きたくなるのは当然だと思う。聞き出そうとしたところでエレベーターが地下の駐車場で止まる。行くぜ、とだけ告げた彼の背を追ってエレベーターを出た瞬間だった。
「来ました!片倉専務とさんです!お二人揃って姿を現しました!」
一瞬、何が起こったのかわからなかった。まぶしいフラッシュに目をつぶると、ぐい、と腕を引かれた。悲鳴を飲み込んだのは上出来だっただろう。引いたのは小十郎で、意味のわからないことを言っていた人間が持っていたのはマイクのようだった。
「お二人が揃って出てこられたということは、やはり噂は本当でしょうか!?」
「会社の社長及び役員全員を更迭されたのは、片倉専務がさんを出世させたいためというのは事実ですか!?」
「やはりお二人は男と女の関係だということですが真相は!?」
突き出されるそれをかわすだけで精いっぱいだった。ぐいぐいと腕を引かれて車へと近づいていく。答える余裕なんかあるわけもない。浴びせられるフラッシュと意味のわからない言葉に戸惑っている間に小十郎は車にたどり着いて鍵をあける。乗れ、とばかりに助手席のドアを開いて中へと半ば突き飛ばされる。そのまま乗り込んだ私を見て彼は無言のまま運転席のドアを開けて腰を下ろすとエンジンをかけてライトをつける。だけど車を出すまいと陣取る彼らにクラクションを鳴らして発進させると轢かれると思ったのだろう。車の前から蜘蛛の子を散らすようにいなくなる彼らの間を小十郎は素晴らしいスピードで車を走らせた。