「え〜っと・・・・・・」
見渡す限り山、山、山。どこかの山頂近く。見渡す限り生々しい木々から険しい山中にいることだけはわかる。わからないのは自分が何故こんな所にいるのか、だ。
記憶をたどれ。と自分に言い聞かせながら今朝からの一日を思い返す。
いつもと同じ時間に起床して、隣に誰もいないことに安心して一呼吸。安堵したのもつかの間、テーブルの上に記憶のない潰れた缶ビールが視界に入ると慌てて財布の中身を確認する。
「あ〜やっぱり・・・・」
予想通り札入れには一枚も残っていなかったのだ。きっと夜中に来た男が自分の財布からお金を抜いて行ったのだ。
「でもよく暴れなかったな、あいつ」
ホッと息をつきながら、そういえば給料日は明日だった、と苦笑する。だから財布の中身が乏しくても見逃してもらえただけなのであって、明日からまた地獄の日々が始まると思えばため息しか出て来ない。財布の中身が少ないことの腹いせに冷蔵庫にストックしていた缶ビールを飲んでそのまま置いていったのだろう。とにかくこれ以上痣が増えなくてよかった。と思いながら明日までの約二日間をどうやってしのぐべきかと思案する。幸いにも冷蔵庫の作り置きの煮しめは無事だった。冷凍庫のお弁当用の唐揚げと昨日の残りのご飯。卵が二つあるから卵焼きにできる。何とか今日の昼ご飯は凌げるし、夜は缶詰のミートソースがあるからパスタでいいや。
台所をチェックしてそう結論付けると、顔を洗いお弁当を作り、食パンをトーストしてインスタントコーヒーをいれて目を覚ます。
「うわ、やば・・・・!」
ちらりと時計を見上げるとタイムリミット10分前。食器を下げて用意していたワンピースにしようとしたが、今日は会議があることを思い出して慌ててスーツを着込んで簡単にメイクを済ませてバタバタと出勤した。
の勤める出版社は地下鉄から降りてすぐの所にあった。ロッカーに荷物を置いて自分の机に着くとすぐに部長に呼び出された。
「くん」
「はい」
「今日の企画会議の資料、コピー20部頼む」
「はい、かしこまりました」
「部長、会議は10時から20名の予定で変更ありませんか?」
「ああ」
一礼してデスクを離れ、会議室を確認してからコピー機に向かう。きっとまた自分は数に入っていないんだろうな、と思いながら一部余分にコピーして会議室の席の前に一部ずつ並べながら何の気なしに眺めてみる。
『戦国武将ゆかりの地めぐり(草案)』と書いてある。ということは今回の企画は旅行雑誌でも出すつもりなのだろうか。出版社とはいえ、中あたりに入るような会社だから抱えている人数も全社で100人いるかいないかだろう。だが、割と重箱の隅をつつくようなマニア向けの本を出版することでファンも多い(らしい)。今回の企画は今人気のある戦国武将ゆかりの地をめぐるガイドブック+歴史書の草案だった。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。このあたりまでは知識としてはあるが、他の戦国武将に関しては名前を知っているぐらいでは御の字で、さっぱり聞いたことのないような武将もいる。添えてある簡単な年表を見やりながら、今度はこの取材に行かされるのか、と視線を走らせる。仙台、新潟、長野、名古屋、大阪、京都、広島、高知、熊本、鹿児島・・・・・。一体どういう風にすればこの地域になるのか、と思いながら、まぁいいか、と気分を切り替えて人数分のお茶を入れ終わった所で会議室の電話が鳴った。
「はい、第一会議室です」
「あ、さん?ごめんねえ。急に隣の部署の営業さん二人も参加するみたいなのぉ」
「そうですか。わかりました」
「ごめんねぇ」
「いえ」
甘ったるい悪意を含んだ猫撫で声が言いたい事だけを告げて電話が切れる。ひとつとため息をもらして受話器を置いて電話の向こうで笑っている女を毒づいた。きっとまた電話をしてきた彼女が意図的に忘れていたのだろうと思うが、今日はまだ会議が始まる前に伝えてくれただけでよしとしよう。多分上司に言えば告げ口をした、と他の女性社員を巻き込んで騒ぎ立てるのが目に見えているから性質が悪い。
面倒だな、と思いつつひとつ上の階のコピー機がある部屋へと向かう。エレベーターを使う距離でもないから外の非常階段から上がることにする。クリアファイルに原稿を入れて非常階段へのドアを開けて踏み出した瞬間。
ふわりと身体が浮いた。
「え・・・・・・・」
いつもなら踊り場があるそこは足が宙に浮いてぞわりと背筋が凍る。
「落ちる・・・・!!」
ああ、こんな所で死ぬのかな。とぼんやりと考えて25年の長くはない人生、何もいいことなんかなかったと自嘲して目を閉じる。別に自分が死んだところで誰も困らない。借りているマンションの荷物は処分されて無縁仏が入る墓に埋葬されるのだろうか。そこまで考えて苦笑する。自分を弔ってくれる人などいるはずもないのに、何を調子のいい事を考えているのだろう。そう考えたらもうどうでも良くなった。やっとあの地獄から解放される。もっと早くこうすればよかった。と逆に後悔の念が湧き上がってくるが、もうこれで終わる。そこまで考えてすうっと意識が遠くなる。は満足したような笑みを浮かべて、浮遊感に身を任せたのだった。
死んだ、と思ったのに、身体に痛みなどは感じない。目を開けてみればまったく知らない山の中で岩にもたれかかっていた。スカートが汚れる、と立ち上がって泥を払う。身体をチェックしてみてもどこにも傷などはない。途方に暮れて思わずひとりごちる。
「ここ、どこ・・・・・?」
自慢ではないが、幼いときから山に親しんだ記憶はとんとない。一口で山、と言っても北から南のそれぞれの地方によって特色が出る、ぐらいの一般常識はあるつもりだが、木を見て今ここがどのあたりである、と場所を当てる芸当などとできる訳もない。それに、記憶にあるのは会社のビルの非常階段を踏み外したのが最後。会社はビルの7階にあるから落ちたとすれば、まず間違いなく死んでいるだろう。だから死んだ、と思ったのに。
「私、生きてる、んだ」
落ちる、と思ったのは間違いだったのか。
「───────────まさか、ね」
脳裏に浮かんだのは空間移動の文字。前にテレビで超能力がどうの、とやっていたのを思い出す。だけどあれの大半は種も仕掛けもある大掛かりな手品のはずだ。こんな風に一瞬(ではないかもしれないが)で別の場所に飛ばされることなどあるはずもない。
遥かに続く山の風景はわずかに紅葉が進んでいて、はああ、紅葉狩りに来たら素敵だろうなあ、と目を細めてひとつため息をついて何の気無しに手元を確認すれば会議室から持って出てきたクリアフォルダと書類が現実を伝えてくる。腕時計を確認すれば午前10時30分を少し回った所だった。確かコピーを済ませて会議室にお茶を持っていったのが、10時少し前だったはずだ。
「あれ・・・30分経ってる」
感覚からいえば呆然としている時間を含めても10分と経っていまい。今いる場所といい、時間の感覚といい、変なことばかりだ。とにかくここがどこかわからない以上、誰かに助けを呼ばなければ、と携帯電話が入っているはずのポケットをまさぐる。
「携帯・・・・あった!」
手にしたままのクリアフォルダといい、なくなっているはずはない、とは思っていたものの、実際に硬質の携帯を手にしてほっと安堵してしまう。これで、大丈夫。よくニュースなどで遭難者が携帯で連絡をつけて助かった、とやっていたから自分も大丈夫。そう思って画面を見て───────────、は凍りついた。
──────圏外──────
「うそ・・・・・・・」
呆然とつぶやいて手に持った携帯を振ってみる。電波が悪いところではこうやれば電波が入るかもしれない、とどこかで聞いたことがある。それに、今いる場所から見渡せる範囲に歩き回ってみる。だが、電波状況を知らせる液晶画面の表示が変わることはなかった。
「ど、しよ・・・・・・・」
死んだ、と思ったとき以上の動揺がじわり、と身体を駆け上がってくる。叫びだしたいのをこらえて、が気がついた岩に腰掛ける。叫んだところで誰も聞こえない。それなら無駄な体力は使いたくはない。落下して死ぬのは痛いけど一瞬ですむ。だけど、どこかわからない山の中で、じわじわと飢え死や、喉が渇いて干からびるのはご免被りたい。テレビでやっていたエジプトのミイラを思い出す。からからに乾いたあの地では死んだ人間が水分を吸い取られて骨と皮だけになるのだ。苦しい思いをして死んだ後の何十年、下手をすると百年単位で死体すら出てこないに違いない。いくら何でもそれは嫌だ。とにかく、山を降りよう、運がよければ誰か人がいるところに行き当たるかもしれない、もし運が悪くて死ぬことになってもここで呆然と干からびるよりはましだ。そう結論付けて、足元を見て肩をすくめる。ヒールを履いていては足をくじくかもしれない。一応ある程度はちゃんとした商品だからヒールがぐらつくことはないけれど、山道を歩くのに適しているとは思えない。でも───────────。
「何もしないより、まし」
自分に気合を入れて立ち上がる。そのときだった。遠くから何か音が聞こえたのは。最初は気のせいかと思った。だが、その音は確実に近づいてきていて、は思わず顔を輝かせる。こんな山の中に、誰かがいる!助かった!と安堵とは別に、彼女の聴覚はなれない音を拾ってくる。
ガサガサと葉をかき分ける音、人の話し声(しかもあまりガラが良くなさそうな)、それに、気のせいではなければ動物の・・・・テレビでの情報を信じるならば、馬の鳴き声だ。
「え〜と・・・・・・・乗馬クラブって山の中にあるんだっけ・・・・・・・?」
明らかに現実逃避の一言を漏らしながらも、人がいる、という事実は純粋にうれしかった。とにかく誰かに会って、山から下ろしてもらおう、と決めて声のする方に歩き出す。だがその必要はなかった。の目の前にぬっと現れた馬と、馬上の男性が自分を見て目を丸くする。その後ろからぞろぞろと続く男たちも一瞬、自分を見て声を失った。だが、それ以上に目の前に現れた男たちの姿にもまた声を失う。
「その方、何者だ?」
「え・・・・・・・・・・」
最初の男性の言葉に、思考が追いつかない。時代劇でしか見たことのない着物と袴。それも卒業式で女性が着ているものではなく、大河ドラマなどで見かける格好だ。それも一人だけではなく、その場にいる全員が同じような格好をしているのだ。だが、最初に現れた男のものだけが少し上質に見えるのは気のせいではあるまい。
「答えろ。女」
「わ、私・・・・・・・」
「成実さま、得体の知れねぇのに近寄っちゃ危ねぇです」
の元に一歩、馬を進める男に付き従っている一人の壮齢の男が声をかける。
「答えなければ」
だがその男の声に答えないまま、成実、と呼ばれた男はスラリと腰から刀を抜いた。
「ひっ───────────!」
「斬る」
「あ・・・あ・・・・・・・・!!」
初めて見る白刃に声が出ない。偽者かどうか、ということを考える前に、あれは本物だ、と思う。カタン、と表情を失った、モノを見る男の瞳に金縛りにあったように動けない。間違いなく人を殺したことのある瞳だ、と恐ろしさに声が出ない。その男の筋肉質の腕に握られている陽の光を照り返す刃がギラリ、と自分に向けられる。死ぬかも、と頭の中で叫ぶが、身体は動いてはくれない。へなへなとその場に崩れ落ちながらも、白刃から瞳が離れない。
「た、助け・・・・っ・・・・・!!誰、か・・・・っ!」
そのまま後ずさるを追うように馬から下りた男が近寄ってくる。後ろを向くなど論外だ。そのまま背中から斬られてしまうだろう、という恐怖に身体が震える。ずるずると後退する背中がコンと音を立ててどこかにぶつかった音にああ、駄目だ、と必死で首を振るが、その首筋にすっと白刃が突きつけられる。
「いやぁっ・・・・!!」
「女、名は?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・っ」
「ほぅ、武家の出か?」
「ぶ・・・?」
名前を告げたの首筋からすぅっと白刃が遠のいて、男の腰の鞘に戻る。どうやら助かったらしい、と息を吐いたに成実は後ろにいる男たちにこう言った。
「この女を連れてこい」
「はっ」
「は・・・・・・?」
恐怖が過ぎ去った安心感に浸る余裕もなかった。硬質の男の声に両方から男たちに腕を取られ、引き上げられる。
「う、馬・・・・・・・っ!?」
そして生まれて初めて目前で見る馬に怖い、と告げる前に、先に騎乗した男の前に身を投げ出される。どん、と軽い衝撃と共に腹部の温かさに目を丸くする。だが安心したのは束の間で、走り出した馬の速度と衝撃には助かるかも、などと思った自分を呪いたくなった。